海にかえる道

考えるだけ無駄なこと、とことん考えてみる。日々の覚書。

沈黙を飲み下す、家族の話

あなたは家族と食事をしていて、気まずさを感じたことはあるだろうか。

美味しいはずの食事を口にしながらも、ぼんやりとしか味を感じられず、ただ一刻も早くこの食事時間が終われと願ったことはあるだろうか。

場を和ませようと、とぼけた声で「美味しい~」と言ってみても、その言葉がただ虚空を彷徨って消えてしまった経験はあるだろうか。

 

私はそんな食事を幼い頃から何度も経験している。

食卓が窮屈だと感じることがよくあった。

 

生活の多様化に伴い「孤食」が広まった現代では、家族で食卓を囲む事自体が珍しくなっている。家族で一緒に食べているだけマシだと思う人もいるかもしれない。

 

うちでは夕飯だけは全員が揃って食べる習慣がある。それは自分が反抗期のときも、受験生のときも、変わらなかった。

 

ところが、その家族で囲む食卓はずいぶんと暗く、気まずいものであった。

 

誰かの誕生日、クリスマス、大晦日

そうしたイベントごとは特にギスギスする。正直祝わないでくれとすら思っていた。

今ではもう祝うこともない。「おめでとう」で一応乾杯して終了。

 

 

大学で出会った友人が言っていた。

「家族は宗教である」と。

家族特有のルール、家族特有の食文化。何を重んじるか。各家庭ごと決まりごとはたくさんあるだろうが、それには正解も間違いも無いのだと。

 

私はこの言葉を聞いて妙に納得がいった。

宗教は生きる上での指針になるが、縛られる必要もない。改宗もできる。

他の宗派と違っても、それを悲観的に思う必要もない。

それは家族も同じだと、そう感じたのだ。

 

「理想の家族像」というものが自分の中にはあった。家族で食卓を囲んで、わいわいと話をして、今日の夕飯美味しいね、などと話す。何で刷り込まれたかはわからないが、そんなイメージがあった。そして、それとは程遠い自分の家族にうんざりしていた。

 

でも実際、そんな絵に描いた「あたたかな家庭」を実現できている家族なんてごくごく僅かだろう。どの家庭にも悩みや問題がある。

 

 

肝っ玉かあさんというドラマをご存知だろうか。

プロデューサー:石井ふく子 脚本:平岩弓枝 主演:京塚昌子 で、1968年に放送がスタートした家族ドラマ。

 

世間的には『ありがとう』や『渡鬼』が有名だと思うが、私はこの『肝っ玉かあさん』とそれから『明日がござる』が大好きだ。

 

根っからの悪人は出てこない。みんな自分のことで精一杯だったり、あるいは家族のためを思ってやったことが裏目裏目にでてしまい、そんなつもりはまったくないのにあれよあれよという間に家族喧嘩に発展してしまう。「夫婦喧嘩は犬も食わないよ!」というセリフが何度出てくることか!笑。

本当にうまく作られている。「その思いを素直に伝えればいいのに!」と視聴者が思ってしまうような言葉を、登場人物たちはうまく伝えられずにすれ違ってしまう。見ているこっちが「お母さんはそんなつもりでやったんじゃないのよ~」とテレビに話しかけてしまう。(22歳 女性)

 

現在、テープが残っているのが第3シーズンだけということで、38話分しか見られないのだが、その内容の9割は家族喧嘩。それくらい家族がすれ違い、ぶつかり、話し合う。

 

私はこのドラマと出会ってから、家族ってやっぱり仲良しだけではやっていけないよな、と安心した。「助け合い」は言い換えれば「干渉」。その全てがうまくいくわけではない。一番近い存在で、一番深く関わる存在で、一番思い合う関係だからこそ、衝突がおこるのだと、そう考えるようになった。

 

 

 

とはいえ、ご飯は美味しく食べたいのが本音だ。

 

肝っ玉かあさん』は蕎麦屋が舞台なので、見ると絶対お蕎麦を食べたくなる。

(本当に好きなドラマなのでまた記事にするかも)