海にかえる道

考えるだけ無駄なこと、とことん考えてみる。日々の覚書。

映画『西の魔女が死んだ』の感想:言葉の呪いと魔法

大学入学してすぐ、ある授業で「母親の言葉が呪いとなって娘の姿(認知)を変えてしまう物語が世の中には多く存在する」という話を聞いて驚いた記憶がある。『シンデレラ』、『ハウルの動く城』、萩尾望都の『イグアナの娘』なんかが例として挙げられていた。恐ろしい話である。が、決して珍しい話ではない。良くも悪くも親の言葉は子どもに影響を与える。それは時として子どもの糧になり、時として枷になる。

 

梨木香歩原作『西の魔女が死んだにも同じことが言えるだろう。

 

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

  • 作者:梨木 香歩
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2001/08/01
  • メディア: 文庫
 

 

 

児童文学の名作で、今更あらすじを書く必要もないだろうが・・・

中学生の「まい」は、ある日不登校になった。仕事で忙しい母は、まいにその理由を聞かなかったが、「西の魔女」である自分の母(まいのおばあちゃん)にまいを預けることにする。おばあちゃんは自然の中で暮らすイギリス人。まいは、おばあちゃんのもとで「魔女修行」に励むが、その修行内容は「早寝早起き朝ごはん」それから「自分で決めること」だけ。修行を経験したまいの考え方は次第に変化し・・・というような話。

 

私は中学生の時にこの本を読んだ。私にもまいと同じ様に、学校に行くのが嫌な時期があり、友達付き合いに悩み、一匹狼として生きようかと思うこともあった。たしか私はこの本を読んでとても泣いた。どの部分がそうだったかは忘れたが、肩の荷が下りるような、ふうっと息をつけるような、そんな安心感が得られた気がする。それから、おばあちゃんの家の庭の描写が素晴らしかったことも印象に残っている。

 

それから10年経った今、ようやく映画版を見たのだが、やはり大泣きした。今はまいの気持ちも、親の気持ちも、おばあちゃんの気持ちもわかる。どの目線で見ても泣ける。

 


映画「西の魔女が死んだ」 予告編

 

そして冒頭の「言葉の呪いと魔法」に話を戻すが、『西の魔女が死んだ』では、学校にいけなくなったまいのことを、母親が電話で父親に伝える。「まいは扱いにくい子だから」と。その声を漏れ聞いたまいは、何度か自分でも「扱いにくい子・・・」と繰り返す。呪いである。一方で、西の魔女であるおばあちゃんは何度もまいを褒める。認める。まいは素晴らしい子であると。

 

もうこのシーンだけでおかわり3杯、いやお涙3Lといったところだ。私自身、母親に「あなたは世界で一番理解できない存在」「わかろうとすることもやめることにした」「あなたが生まれてきたことで、世の中に自分とはわかりあえない人がいるのだと知ることができた」と言われて育った。それはある意味ネガティブであるが、ある意味でポジティブ。理解も共感もしてもらえないが、自由に思考することを許され、親のコピーではなく一人の人間として尊重されることも意味する。

 

感情が揺れ動く思春期は、自分の意志で動きたい気持ちと、親や周りの大人からの助言が欲しい気持ち、どちらも存在する時期である。とにかく難しいのだ。そして実は、大人が思うよりずっといろいろなことを子どもたちは考え、悩み、苦しんでいる。大人からすると大したことのない感情も、子どもの世界にとってはとてつもないもの。「そんなことで悩んでないで」と言い捨ててしまわぬように気をつけなければならない。

 

それから、魔女修行の内容について。小説を読んだ当時はなんとも思わなかった

「早寝早起き朝ごはん」「自分で決める」

…いや、めちゃくちゃ難しいやんけ!今の私にはとてもとてもできません。魔女修行には忍耐がいるのだそうだ。でも、ちょっと鬱っぽい悩める現代人は、みなこれを意識するべきかもしれない。

 

映画では何度か食事のシーンがでてくる。自然の恵みたっぷりの、いかにも身体に良さそうなお料理。おされな葉っぱが乗ったお茶(ハーブティー)も美味しそう。おばあちゃんがこんな美味しい朝ごはんを用意してくれるんだったら早起きしますとも!!(今日は正午過ぎに起きた人間の発言)

 

それからおばあちゃんが夜中にクッキーを焼いてくれるシーンがある。何かいけないことをするように、くすくすと笑いながらおばあちゃんはクッキーに手を伸ばす。あのシーンは憧れてしまう。中学生には悩んで眠れない日が多くあると思う。私には眠れず泣き明かす日が何度もあった。その度「早く寝なさい」と怒られるばかりだったけれど。

 

 

まいがおばあちゃんに「人は死んだらどうなるの?」と尋ねるシーンがある。

おばあちゃん「魂が身体から脱出して自由になるのよ」

まい「じゃあ肉体は邪魔じゃない?初めから肉体がなければ自由じゃん」

おばあちゃん「でも、肉体がなければいろんな場所にいったり、いろんな体験ができませんよ」

このあたりは正確なセリフではないが、たしかそういった会話をする。めちゃくちゃ哲学。おばあちゃんは「まあ死んだことないのでわからないけれど」と前置きをするのだが、映画ではこのシーンが一番泣けた。肉体があるからこそ苦しいこともあるが、肉体がなければできない体験、抱けない感情があるのだ。人間って素晴らしい(?)

 

 

母親いわく、私は小さい頃からよく「死」について考える子だったらしい。誰かの死を経験したとかそんなことも無かったのだが、5歳くらいから「死んだらどうなるんだろう」「自分はいつ死ぬんだろう」と毎晩考えていたそうだ。親はそれに対して「いいから寝なさい」と答えていたらしい。まあ、これも正解だろう。明確な答えは得られなかったが、だからこそ自由に考えることができる。大学の授業でも「死」について考える機会が多かった。大学生になった私は「えっ、大人が死について真面目に考えていいの??」と驚いた。いつのまにか「死」について考えることは(よくわからないから)無駄なことだと思いこんでいた。

 

肉体が魂の器であることは、理解できないこともない。しかし死後、自分の魂が自由になったとしたら、それをコントロールできる気がしないので怖い。さまよい続けたくない。肉体が失われたら魂も消失してほしい。今はそんな考えである。

 

さて、映画に話を戻す。おばあちゃんのもとで魔女修行をつんだまいは、今度は転校することを決意する。父親の単身赴任先?に引越して3人で暮らすのだという。父親はたいそう喜ぶのだが、それで良いのか?と思わざるを得ない。父親のなんとも言えない頼りない感じが妙にリアルだ。母親は仕事を辞めるのだという。で、まいはおばあちゃんの家を出るのだが、その前にまいとおばあちゃんは喧嘩しているため、なんとも気まずい状態で別れてしまう。「おばあちゃん大好きだよ」「ずっとまいがここにいてくれたらいいのに」そんな言葉は口に出せなかった。

 

そして2年後、おばあちゃんが亡くなったという知らせを受けて、まいと母親は車を走らせる。まいは新しい学校の制服に身を包んでいるが、その表情は「無」そのもの。おばあちゃんの家で暮らしていたときの、表情豊かなまいとは別人のようだ。学校に馴染むことは、自分の感情を押し殺すことでもあるような気がする。そのほうが「楽」なのだろう。

まいはおばあちゃんの家を出てから、一度も遊びに行くことはなかったようだ。喧嘩別れをしてしまったことを後悔している。大好きなおばあちゃんとでも、ずっと一緒にいると結局喧嘩になってしまうし、自分の生活が軌道に乗るとおばあちゃんの存在を忘れてしまう。寂しいが、まいが確かに強くなった証拠だ。

しかしこれから先、おばあちゃんの命日のたびにまいは喧嘩したことを後悔するのだろう。人間なんてそんなものだろう。生きてる間はたくさん喧嘩もする。大切な言葉は思っていても伝えられない。様々な後悔が降り積もりながらも、日々の忙しさに押しのけられて、なんともないかのように生きていく。

 

子どもの頃の悩みもずいぶんとちっぽけに感じるようになってきた。成長は強くなることなのか、鈍感になることなのか。『西の魔女が死んだ』ほど、揺れ動く思春期の女の子の感情に寄り添ってくれる話はないように思う。これから先も、この本に救われる子がたくさんいるのだろう。それから植物の緑が感じられなくなった、心が疲れた大人たちにも染み入る物語だ。

 

私は4年間の東京生活でひどく疲れたように感じた。とても楽しかったのも事実ではあるが。今はまいのように、自然の中で寝っ転がって「エスケープだー」と叫びたい。